超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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他者を真に受け入れることの難しさ。誰もが認める正しい答えなんて無い。

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さーて、今日は小難しい話題をちょろっとお届けしようかな。コミュニケーションのあり方について、元心理カウンセラー志望の僕がズルズルと書いた駄文である。アドラー心理学から禅とかタオとかそのあたりのスピリチュアルまでちょっと踏み込んだ臨床心理学入門編みたいな文章だ。


そいじゃま、今日は本編をガッツリ語ろう。


人間関係の罠ではまってしまいがちなのは、自分に合わせて周囲の人々を操作しようとしてしまう事。アドラーの言葉で次のような名言がある。原典が分からないので、ただの警句として利用する。たしか「嫌われる勇気」あたりで使われていた言葉ではないかと思われる。

健全な人は相手を変えようとせず、自分が変わる。
不健全な人は相手を操作し、変えようとする。


コンプレックスを持っている人は、なにかと相手から特定の言葉を引き出すために無駄な努力をしがちだ。目の前の相手を人間として認めず、自分の意見に同意するだけの機械と認識して行動している奴も中には居る。マウンティングと呼ばれる行動がまさしくそれだ。アドラー心理学の射程では、そういう単純なものに限らず、ただ認められるために人に親切な顔をしてしまう人までを含む。こういうのを目的論という。


他人を操作しようとするほど不毛なことはない。例えば自己愛性人格障害は他人をコントロールする術に長けているが、いつまでも満たされずにもっと人目を集める過激なパフォーマンスに出て破滅しやすい。彼らはちゃんと他者の存在を見ているのではなく、自分の虚像だけを追い続けているのだろう。それで社会的に成功したとしても、周りに本当に自分を認めてくれる人はなく孤独な生涯を送るだけだ。社会的に成功しているとされている芸能人なんかでもこういうエアスポットみたいな所に落ちちゃった人は多いんじゃないかな。だから芸能人の麻薬禍なんかはいつの時代でも尽きないのだろう。


僕が今、論じようとしているのはテクニックによる人心操作の危険性だ。世の中にその手のことを集めたメディアってのは佃煮にできるぐらい多い。例えば、「悪用厳禁!思い通りに恋人を操るテクニック」みたいなムック本とか、「自分を許して幸せになる心理学」みたいなスピリチュアル気味のまとめサイトなんかである。こういう情報を集めたメディアは大して中身がないのに金を取ろうとしたりするけど、読んでみても内容がないどころか、逆に有害である事さえあるので気を付けよう。


僕は一応、心理カウンセリングを大学で学んできた人間だが、大学の心理学部でまず最初に習うことは、こういう俗流心理学は学問でないということである。臨床心理学で主流で使われているロジャーズの来談者中心療法ってのは、まずそのクライエントの存在をきちんと引き受けて話す場所を保証してあげることでクライエント自身の回復力を引き出してやるっていうような論理である。ロジャーズの著書なんかを読んだらわかると思うけど、技法的な論理構築よりも実践的な体験談の方が多い。感覚としてはカウンセラーは特に治療は何もしていないのだが、クライエントが勝手に治っていくというような感じである。実際のカウンセリングの場では下手に理屈を持ち出すってのは悪手なんである。


国家資格の臨床心理士の資格を取るためには大学院の修士まで取って、実際の臨床現場を1年以上経験していないと資格受験の権利すら取れない。だが、カウンセラーを名乗るのに別に資格はいらない。世の中には、ただの心理学マニアみたいな奴が、ココナラみたいなところでカウンセリングの広告をだして客を取っているケースさえある。一体、どんなカウンセリングをするのかわからないけど、悩み事相談ならともかく、本格的な精神疾患クラスまで行っちゃってる人なら症状を拗らせる可能性がほぼ確定的な事は指摘しておきたい。


臨床経験が豊富なカウンセラーならたとえ単純なうつ病であっても薬物療法と併合しながら進めていくと思う。カウンセリングだけで病を治そうとしている人は薬物療法をやたら敵視している事が多い。カウンセリングだけで病気を治すのは運しだいになるよ?要はメリットとデメリットを比較した時に合理的であるかどうかである。副作用よりも薬効の方が強いと判断した時に医者は薬を処方する。薬の副作用ばっかりとりあげて実際に病気が治ったケースを無視するのは合理的じゃないだろう。標準医療というのはちゃんと統計で有意差を出した上で判断するものである。ちゃんとしたカウンセラーなら、話を聞くだけじゃなく精神科医とタッグを組んで総合的な治療をしようと方針を立てるはずだ。このあたりを理解せず、好き勝手な治療法をつまみ食いしている奴は、なんでわざわざ治る可能性が低い治療法で自分の病気だけは必ず治ると確信しているのかは僕にはよく理解できない。


さて、ずいぶん話がそれた。俗流心理学はやたら人の心を操作するテクニックばかりを論じるが、それでは人の心は動かない。実際の臨床現場の心理学で重視されているのは、相手を人間として認めてきちんと真正面から問題に共に取り組むとかそれぐらい。学問の論理よりは人としての器が重要になる。座学で論理は勉強するが、実際の刀が火花を散らしあう臨床の修羅場では全く役に立たない。心理学で人間の思考の傾向を知ることはできるが、その通りに動くとは限らないのである。教科書通りの典型例のほうが稀なぐらいだ。俗流心理学の小話ばかり集めてる素人カウンセラーは本当の人間を知っているのかなぁと思う。


僕のコミュニケーションに対する考え方はパールズの「ゲシュタルトの祈り」を引用しておきたい。

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それはしかたのないこと。


ゲシュタルト療法 - Wikipedia


自分が常識だと思っていることが他人にとって非常識だったり、またはその逆になることは普通に生きていれば良くある事。かたくなにならずに柔軟な意見を持ち、色んな人の意見を取り入れることは自分にとっても学びになる。確固とした自分を持っていないと真のコミュニケーションにはたどり着けない。自分を持つことと他人を受け入れることは、実際に人と付き合っていく経験を積み重ねないとわからないだろう。これは一生ものの勉強だ。


本物を目の前にしたときしか、それを本物かどうか知ることはできない。百の言葉も千の書物も「それ」があることを示してくれるが、実際に出合って見ないと本当かどうかわからない。僕はオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」を読んだ時にそれを感じた。弓道の『型』は道を示してくれる。だが、実際に弓を放つ『我』は自分しかわからない。師匠は言葉を尽くして道を示すが、その道を歩けるのは自分ただ一人だけだ。弓道に限らず、剣道だろうが座禅だろうが実存哲学だろうが心理学だろうが、そこに道があることは教えてくれるはずだ。だけど、道そのもの言葉で示すことはトートロジーに陥って不毛なだけだと思うのだ。実際に歩んだ経験しか自分が歩んでいる道が正しい答えであるかは教えてくれない。誰もが認める正しい答えなんて無い。


僕が求めるのは老子が語る「無為自然」なのかもしれないな。だとするとこのメタな後付文章は蛇足なんだろうな。難しいもんだ。


弓と禅

弓と禅


タオ―老子 (ちくま文庫)

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